2011年11月30日水曜日

L・M・モンゴメリ、村岡花子(訳) “アンの愛情”


「()きょうは雪がふっているので、あたし、うれしくてたまらないの。雪なしのクリスマスをむかえるのではないかと、とても心配してたのよ。大きらいですもの。
アン、電車に乗ってから気がついたら、お金を一セントも持っていなくて、電車賃が払えないなんてめにあったことがある? この間、あたし、そうだったのよ。まったくせつなかったわ。
電車に乗るとき、五セント硬貨を一枚持っていたの。それをコートの左のポケットに入れておいたつもりだったのよ。らくらくとおさまってから、お金をさぐったの。ないじゃありませんか。ぞくっと寒気がしたわ。もう一方のポケットをさぐったの。そこにもないのよ。またもや、ぞくぞくっとしたわ。こんどは、小さな内ポケットをさがしてみました。なにもかも、むだです。あたしは、いちどきに二つ、ぞくぞくっとしました。
手袋をとって座席におき、もう一度ポケットをみんなしらべてみました。ありません。あたしは立ちあがり、からだをゆすってから、下を見てみました。電車は、オペラ帰りの人でいっぱいで、みんな、あたしのほうをまじまじと見ていましたが、いまはもう、そんな小さなことにかまってはいられません。
けれども、電車賃は見つかりませんでした。きっと、自分の口の中に入れたのを、うっかり飲みこんでしまったにちがいないと思いました。
あたしは、どうしていいかわかりませんでした。車掌は電車をとめて、あたしを不名誉な恥ずかしい姿でおろしてしまうかしらと思ったの。そそっかしいおかげで、こんなひどいめにあっただけのことで、うそいつわりで無賃乗車をするような、けしからぬ人間でないことを車掌にわかってもらえるかしら?
アレックかアランゾがいてくれたらと、どんなに願ったかしれないわ。でも、あたしがきちゃいやだと言ったもんで、二人ともいません。あたしがいやだなどと言わなかったら、二人は、よろこんでそこにいたことでしょうに。
車掌がまわってきたらなんと言おうかと、心に決めかねていました。胸の中に、いいわけのことばを一つ作りあげると、たちまち、だれもそんなことは信じてくれまいという気がしてきて、また別のを考え出さなくてはならないの。もう、運を天にまかせるほか、しかたがないという気になったのよ。そう思ったら、すっかりのんきになって、嵐のさなか、船長から、全能の神にすべてをおまかせするのですよ、と言われ、『おや、船長さん、それほどひどいんですかね?』とさけんだ、あのおばあさんさながらの気分になりました。
望みはいっさい失われ、車掌が、あたしの隣の乗客に箱をさし出した、そのお定まりの瞬間、ふいにあたしは、問題の硬貨のしまい場所を思い出したんです。やっぱり、飲みこんだんじゃなかったのよ。あたしは、おとなしく、手袋の人差し指からコインを探りだして箱の中へおしこみました。あたしは、みんなの顔を見てにっこり笑い、この世は美しいなと思ったの。」

2011年11月24日木曜日

アリソン・アトリー、石井桃子/中川李枝子(訳) 「メリー・ゴー・ラウンド」

チルターン丘陵地帯のずっと高いところに、ペンという名の小さい村があります。近くの丘々のブナ林が、ペン村をかこんでいるようすは、ちょうど一枚の絵が、緑と金色の額縁にはいっているように見えます。そして、村の緑地公園をまるくかこんで、古い家々がたっています。戸にシンチュウのドアたたきのついているのは、十八世紀にできた家、ドアたたきがまったくついていないのは、十七世紀の家です。十七世紀に建てられた、小さい家々をおとずれる人たちは、自分のにぎりこぶしで、戸をたたかなければなりません。

2011年11月1日火曜日

長田弘 “猫がゆく サラダの日々”

道を強引にじぶんにしたがわせていたかにみえた昼の街のすがたは、深夜の街のどこからもすがたを消しています。道があり、道にしたがって、街々がある。ひっそりとそのことを、夜の道は語っているだけです。

“男はつらいよ 花も嵐も寅次郎”

こんどあの子に会ったら、こんな話しよう、あんな話もしよう……そう思ってね、家出るんだ。――いざその子の前に座ると、ぜんぶ忘れちゃうんだね。で、馬鹿みたいに黙りこくってるんだよ。そんな手前の姿が情けなくって、こう、涙がこぼれそうになるんだよ。

“ゲシュタルトの祈り”


Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben. Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen – und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen. Ich bin ich und du bist du – und wenn wir uns zufällig treffen und finden, dann ist das schön, wenn nicht, dann ist auch das gut so.





わたしはわたし、あなたはあなた。 
わたしはわたしのことをやり、 
あなたはあなたのことをやる。 
わたしはあなたの期待に応えるためにこの世にいきているわけではない。 
あなたはわたしの期待に応えるためにこの世にいきているわけではない。 
あなたはあなた、わたしはわたし。 
もし、二人が出会えれば、それはすばらしいこと。 
出会わなければ、それはそれでしかたがないこと。

レイ・ブラッドベリ 「なんとか日曜を過ごす」


かすかな、試し弾きのような、ハープの呟きが聞えた。
また静まりかえった。
それから再び吹き始めた風に乗って、ゆるやかな演奏が聞えた。
それは古い唄の調べだった。ぼくは歌詞を知っていた。独りで歌詞を呟いた。


 唄に合せてかろやかに歩めよ、
 やさしい草を傷つけぬよう。
 人のくらしには雨あり風あり、
 砂時計のなかでは砂あらし。


そう、とぼくは心のなかで言った。つづけてくれ。


 涼しい日陰を気楽にさまよい、
 日ざしのなかではひなたぼっこ。
 飲みものよ、ありがとう、たべものも、
 葡萄酒も、かわいい女たちも。
 くらしはいずれ終るのだから、
 クローバの上をかろやかに歩めよ、
 いとしいひとを傷つけぬよう。
 こうして、くらしから出て行こう、
 さよなら、ありがとうと言いながら。
 すべてがすんだらゆっくり眠ろう、
 いのちと引き換えの眠りだもの。

高村光太郎 “晩餐”


暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二四銭五厘だ
くさやの干ものを五枚
沢庵を一本
生姜の赤漬
玉子は鳥屋から
海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつをの塩辛

湯をたぎらして
餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐
ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
やがて飽満の恍惚に入れば
われら静かに手を取つて
心にかぎりなき喜びを叫び
かつ祈る
日常の瑣事にいのちあれ
生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
われらすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ

われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帯び
われらの食後の倦怠は
不思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五体を讃嘆せしめる
まづしいわれらの晩餐はこれだ



CUT 2011年6月号 岡田麿里インタビュー

――岡田さんの作品には、「青春」「群像劇」っていうモチーフがありますけど、より大きな視点で見ると、オリジナルにせよ原作ものにせよ、それは居場所をめぐるお話という言葉に集約できると思うんですけども。
「そうなんですよね、作品だけじゃなく、わたし自身もそう。居場所がほしい、誰かに求められたいって欲がほんと強い。どう考えても痛い目にあいそうな仕事なのに、誰かがすごく必要としてくれたら、それだけで引き受けちゃったり(笑)。でも、実際に自分の居場所がそこにあるってファンタジーは、信じてなくて。そこで満たされちゃったら、書けなくなっちゃうような気もするんです。昔、仕事先の人に、『おまえは子供を産むな』って言われたことがあって。『産むなら十月十日前に申請しろ』って言われて。子供を産むとおまえのシナリオは変わるって言われたんです。そのときは、意味がよくわからなかったんだけど。いまになって思えばわかるというか。わたしの書きたいって原動力は、たぶん、自分に欠陥があるから生まれるのかなって。ほんとうは、約束されたパライソみたいなものが書けたほうが、アニメ的にはいいのかもしれないって思うんですよね。だけど約束できないこととか、約束できないことを約束したがるその気持ちとか、そうやってなにかを求めてる状況のほうが幸せなことだってあるし。変な言い方ですけど。終わっちゃうものとか、諦めちゃったものとか、気づいたら過ぎちゃっていたものとか、そういうもの。いま、ここにないものというか……うん。居場所っていうよりも、“いま、ここにないもの”を書きたいっていうのはありますね。『あの花』だったら、かつてあったもの? それは再び手にした瞬間に終わっちゃうものかもしれないし、もっているときは気付かないことかもしれないし……わたしは、いつもなにかが足りない人たちを書いていきたいっていう思いはありますね。でも、『それは手に入んないんだよ』って言うんじゃなくって、『いつか手に入るかもね』っていうぐらいの気分で。求めて足掻くのってかっこいいじゃん、みたいな。すっごい漠然としてますね、すみません」

コーマック・マッカーシー “すべての美しい馬”

 ロリンズはさらに馬を前に進め、酒を飲みながら独言をいった。馬がどこまでいくか教えてやろうか、と後ろに向かって叫んだ。
ジョンン・グレイディもあとに続いた。馬の足もとから行く手の道に砂埃が渦巻いた。
まっすぐこの国から飛び出していくんだ、とロリンズが叫んだ。そうさ。そして今度の金曜日に地獄へいく。あの馬がいく先はそこだ。


(…)

 最後に老人は自分は馬の魂を見たことがあるがそれは見るからに恐ろしいものだといった。それは一頭の馬の死に立ち会ったときにある種の条件がそろうと見えるがそれというのも馬という生き物は全体でひとつの魂を共有しており一頭一頭の生命はすべての馬たちをもとにしていずれ死すべきものとして作られるからだ。だから仮に一頭馬の魂を理解したならありとあらゆる馬を理解したことになると老人はいう。
一同はじっと坐って煙草を吸いながら赤い炭がひび割れ壊れてゆく焚き火の中心部を見つめていた。
じゃあ、人間はどうなんだろう(イ・デ・ロス・オンブレス)? とジョン・グレイディがきいた。
老人は答え方を捜して口を色々な形にした。しばらくたってようやく彼は人間同士のあいだには馬のような魂のつながりはなく人間は理解できるものだという考え方はたぶん幻想だろうといった。ロリンズが下手なスペイン語で馬にも天国はあるのかと訊くと老人は首を振り振り馬には天国など必要ないと答えた。しばらくしてョン・グレイディがもし地上から馬が一頭もいなくなったらもう新しい生命を補充できなくなるから馬の魂も滅びるのかと尋ねると、老人はただ地上に馬が一頭もいなくなるなどということは神様がお許しにならないからそれについて何かをいうのは無意味だと答えただけだった。




西尾維新 “少女不十分”

 そして僕は『お話』を始める。ソファで夢うつつのUに、囁くように。緊張で上擦っていた僕の声も、いつしかニュートラルなものになっていた。意識するまでもなく。それはきっと語るのが、僕の言葉ではない『お話』だったからだろう。僕という個人は消失し、僕はただの語り部になる。
 だけど僕がおとぎ話としてUに語り続けたのは、桃太郎のように『正しくて強い者が勝つ』話ではなかった。シンデレラのように『真面目な者が報われる』話でもなければ、白雪姫のように『心の綺麗な人間が見初められる』話でもなかった。
 僕がUに語ったお話は……物語は、一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話だった。頭のおかしな人間が、頭のおかしなままに、幸せになる話だった。異常を抱えた人間が、異常を抱えたままで、幸せになる話だった。友達がいない奴でも、うまく話せない奴でも、周囲と馴染めない奴でも、ひねくれ者でも、あまのじゃくでも、その個性のままに幸せになる話だった。恵まれない人間が恵まれないままで、それでも生きていける話だった。
 それはたとえば、言葉だけを頼りにかろうじて生きている少年と世界を支配する青い髪の天才少女の物語である。またたとえば、妹を病的に溺愛する兄と物事の曖昧をどうしても許せない女子高生の物語である。知恵と勇気だけで地球を救おうとする小学生と成長と成熟を夢見る魔法少女の物語である。家族愛を重んじる殺人鬼と人殺しの魅力に惹きつけられるニット帽の物語である。死にかけの化物を助けてしまった偽善者と彼を愛してしまった吸血鬼の物語である。映画館に行くことを嫌う男と彼の十七番目の妹の物語である。隔絶された島で育てられた感情のない大男と恨みや怒りでその身を焼かれた感情まみれの小娘の物語である。挫折を知った格闘家と挫折を無視する格闘家の物語である。意に反して売れてしまった流行作家と求職中の姪っ子の物語である。奇妙に偏向した本読みと、本屋に住む変わり者の物語である。何もしても失敗ばかりの請負人とそんな彼女に好んで振り回される刑事の物語である。意志だけになって生き続けるくのいちと彼女に見守られる頭領の物語である。
 とりとめもなく、ほとんど共通点もないそれらの話だったが、でも、根底に漂うテーマはひとつだった。
 道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる。
 それが、物語に込められたメッセージだった。
 僕であろうとUであろうと、誰であろうと彼であろうと、何もできないかもしれないけれど、生きていくことくらいはできるんだと、僕はUに語り続けた。
 いつしか日は暮れ、夜になったけれど、他に何をするでもなく、僕はUに『お話』を続け、Uはそれを、聞き続けた。
 当然のことながら、そんな『お話』なんて実在しない。どこにもない。世間で知られる『お話』はどれもこれも、僕達みたいな人間には冷たくて、正しくあれ、強くあれ、清らかであれ、一般的であれ、まっとうであれと語りかけてくる……みんなと仲良くやれと、他人を思いやれと、ある階層の人間にとってはできもしない無理難題を要求してくる。今のUには、そんな教訓じみた話は、説教じみた話は、とてもできない。
 だから僕は物語を作った。即興で、行き当たりばったりだったけれど、とにかく言いたいことをぎゅうぎゅうに詰め込んで、Uに語った。
 大丈夫なんだと。
 色々間違って、色々破綻して、色々駄目になって、色々取り返しがつかなくて、もうまともな人生には戻れないかもしれないけれど、それでも大丈夫なんだと、そんなことは平気なんだと、僕はUに語り続けた。
 英雄の話ではなく、救世主の話でもない、異端者ばかりの話を、いつまでもいつまでも、果てることなく語り続けた。

2011年10月29日土曜日

クマさんデバッグ

teddy bear debugとゆうのを聞いた。クマさんと話しながら問題解決に取り組むと、ひとりでやるよりうまくいくらしい。それはいいな。妖精さんでも脳内彼氏でも何でもいいから、とにかく対話があるってのは、視野狭窄に陥らずにうまくやってくコツなのかもね。

こんにちは

もっかい最初からやってみます。こんどは、まじめに。最近さむいねー

レイ・ブラッドベリ 「第五号ロボットGBS」

「ショー先生」ウィリスは低く鼻を鳴らしながら頭を振った。「どうしてだろう。ぼくの知っている誰よりも、あなたのほうが生き生きしてるように見えるのは、なぜですか」
「それは、きみ、なんということはない」と老人はやさしく言った。「きみが手を暖めているものは概念だろう? わしは概念や、ちょっとした思いつきの細工物でいっぱいの、歩く記念碑であり、哲学や警句を喋りちらす電気人形だよ。きみは概念が好きなんだ。わしは概念の容れ物だ。きみは歩く夢が好きで、わしは動く。きみはお喋りが好きで、わしは申し分のないお喋りだ。きみとわしは一緒にケンタウルス座のアルファ星を嚙み砕いて、宇宙の神話を吐き出す。ハレー彗星の尻尾にまたがって煙草を吸い、〈馬の首〉星雲を悩ます。終いに〈馬の首〉が降参して、われわれの創造に参加するまでな。きみは図書館が好きで、わしは図書館そのものだ。脇腹をくすぐってごらん、わしはメルヴィルの白鯨でもなんでも吐き出すから。耳をくすぐってごらん、きみがすぐにでもそこに住みたくなるようなプラトンの共和国を舌先三寸で作ってみせるから。きみはおもちゃが好きで、わしはおもちゃだ。途方もない遊び道具だ、コンピューターの組みこまれた――」
「――友人です」とウィリスは静かに言った。
ショー氏はウィリスを見つめた。鋭いというよりはむしろ温かい目で。
「友人か」とショー氏は言った。